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2017.06.15 Thursday | - | - | -
映画「アヒルの子」
 

 自分自身を取り戻すこと、そして家族再構築の挑戦するドキュメンター。端的に言えば、こう表現できるかもしれない。  「アヒルの子」は、監督の小野さやか自身が主人公。5歳の頃に「ヤマギシ会の幼年部」に一年預けられるが、その記憶がない。「親に捨てられた」と感じてしまう。その後、見捨てられ不安を抱えながら生きて行く。だからこそ、「いい子」で生き続けてきた。  映像だからこそ、カメラがあり、そのため、あそこで表現できた面と、あそこまでしか描けなかったという両方の面がある。カメラがあることで「社会」を意識し、多少なりとも、第3者を意識した「演技」をしてしまうからだ。  また、編集という技術も、監督の目の「編集」が入るため、ドキュメンタリーといっても、一定の「創作」が入る。そうしたドキュメンタリーの限界にどこまで近づることができるのだろうか。私は、この種のドキュメンタリーを見るときに、いつもそう思っている。  全体的な話からすれば、さやかの昼の表情と夜の表情をが違うのではないかということに私は気がつく。夜の表情は、感情を込めたものであり、カメラをあまり意識してないように見える。これまでの感情を込めながら、インタビューである以上に向き合う。そこには、さやかの思い込みを含まれているためか、どこに真実があったのかというよりは、さやか自身の納得のための聞き取りになっている。その一方で、昼の表情をしているときは、カメラを意識し、真実がどこにあったのかを冷静にとらえようとする姿があった。  では、夜の表情で立ち向かったシーンを考えてみる。まずは家族で唯一安心できる次兄と向き合う。ある意味、恋愛的な要素を求めつつ、性的な関係だけではない、すべてを包んでくれるかのような関係を求めようとする。二人で夜、部屋で寝ているが、さやかは、何らかの愛情表現を求めようとする。まるで次兄であれば、母親の胎内の中にいることと似たような、安心感を得られるのではないか?という期待感があったのではないか。  このとき、最もカメラを意識していたのは、次兄ではなく、さやかだったのではないか。次兄への気持ちを話すとき、カメラを抱える。感情的になっていながらも、カメラを意識する姿は、「女優」でもあり、「監督」であるさやかの強さともに、一方では、次兄へ近づきすぎてはいけないという壁をそこに作ったシーンでもあった。アンビバレントな感情が支配していたのかもしれない。  また、かつて性的虐待をした長兄へ向かうときに、非常に恐怖感のある表情をして立ち向かう。長兄がかつてさやかにした性的虐待をさっさり認めてしまったが、あれはなぜなのだろうか。長兄がカメラを意識したからかもしれない。そこで、否定的になっても、不利になるのは自分だからだ。  同時に、さやかとの決別だったのかもしれないとも思った。長兄はそこで何を読み取ったのだろうか。おそらく、さやかの納得を優先したのではないか。だからこそ、認めて、要求に応え、土下座までしている。その土下座は真に謝罪しているようには見えないが、さやかは「赦す」。もしかすると、このシーンがなくても、さやかはもう「赦したかった」のではないか、とさえ思った。  両親と向き合うシーンの数々では、「両親から捨てられた」と感じていたことを吐露する。初めてそんな感情を口にするのを目の前で見る両親。2人の立場からすれば、「なぜいまごろになって?」と思ったことだろう。「良かれ」と思ってきたことが、実は、娘の心に大きな傷を作っていた。父親は謝罪はしなかったものの、どうしてどんなことにしなってしまったのかと感じていたのか、口数が少ない。こんな時、常に論理の世界で生きてきた父親にとっては、まったくの意味不明状態だったのに違いない。  一方、姉と向き合うシーンは昼だ。表情もそこまで感情があふれている感じではなく、一歩引いている。なぜ、突っ込めないのか。もちろん、同性的な予定調和がそこにあるのかもしれないが、姉には突っ込めない何かがあるのではないか。その何かはおそらく傷であり、傷を知っているからこそ、責めきれないのではないか。だからこそ、夜の顔で向き合うことを選択しなかったのではないか、と思ってしまった。見ている側からすれば、「和解」という形が、なぜか、しっくりこない。  もう一人、昼の顔で向かい合うのは、母親。「死にたい」と思ったことがあることを初めて告白しても、母親は、「母親らしく」、受け止めようとする。娘をしからずに、じっくり話を聞く。そんな姿を前に、娘としてのさやかはやはり、なぜか距離を置く。カメラを意識した昼の顔では責めきれない。だからこそ、もう一度向き合おうとするときは、夜の顔のときになる。夜となると、両親は二人一緒であり、ようやく向き合う決意ができたときには、すでに深夜になっていた。足がぶるぶる震えているシーンは印象的だ。  宣伝用のサイトには、  [家族]の中での[いい子]の[私]。 [私]は[わたし]を取り戻すために [家族]を壊す決意をした。 
  というタイトルがある。[家族]を壊す決意、とは何か?家族の闇を表に晒すことなのだろうが、さやかが求めたのは壊した後の再生だったのではないか。しかし、壊そうとしてさやかの思いをぶつけた家族は、そこまで強固なものではなく、壊れやすいものだった。ちょっとしたことで負の部分が見えてくる。やっとの思いで決をした[家族]を壊すこと。そこに何の意味があったのだろうか。そこにこだわり続けることに何の意味があったのだろうか。ラストシーンでは、[家族]再生の物語があり、自分を取り戻すさやかが描かれる。果たして、そんな奇麗なハッピーエンドでよいのか。  かつて、「ファザーレス」という映画があった。「父なき時代を生きる」というものだった。なぜ、自身が自傷行為をするようになったのか、また出自である被差別部落の問題、貧困、夜遊びを繰り返してきた母親、軽蔑してきた継父。過去の自分と向き合ったドキュメンタリーを見たとき、まさに「アヒルの子」と似たような自分解放の物語だった。しかし、「ファザーレス」の監督が、その後、生きやすい人生を送ったわけではない。むしろ、その後、「ファザーレス」での苦悩以上かもしれない。  トラウマと向き合い、その原因となった人たちと“対決”することの意味は、何なのだろうか。その原因を突き止めることはジャーナリズム的な意味で、あるいはドキュメンタリー的な意味での、「真実」に近づけるのかもしれない。真実に近づければ、「納得」できるかもしれない。しかし、「納得」できることと、その人が生きやすく過ごすことができるのかは別の問題であろう。  かつて、性的虐待の当事者を取材した時、虐待の当事者(父親)を訴えたいと言い出した人がいた。私はそのとき、「訴えて真実を解明し、父親へ復讐することと、あなた自身のトラウマが解消されることは別の問題かもしれないよ」と言ったことがあった。彼女は「仮にそうだとしても、訴えないと気が済まない。勝てば、前に進めるかもしれない」と言い、裁判をし、勝訴した。しかし、彼女は、その後、生きやすくなったわけではない。結局、様々な生きづらい人生を送り、最後には自殺をしてしまう。  トラウマとどのように向き合っていけばよいのか。そこにこだわることの意味はなんなのか。いろんなことを考えさせられる。トラウマの原因ともなった家族たちの生き様や、「どうして、あのとき、あのような行動をしてしまったのか」ということまで最終的に行き着いてしまうと、家族なりの「物語」が存在する。それらは良くも悪くも「正当化の物語」であり、トラウマの加害者を免責してしまうことになる。  たしかに、加害者を免責することは再生の物語のプロセスには必要だろう。しかし、それは再生しきった後に、生きやすい人生を保証するものではない。その後の生き方を獲得するには、別の苦労が必要になってくる。さやかはこの作品後、生きやすくなったのだろうか。私には、そこが一番気になった。

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2010.05.17 Monday | 映画 | comments(0) | trackbacks(0)
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