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2017.06.15 Thursday | - | - | -
BOΦWY
LAST GIGS COMPLETE
LAST GIGS COMPLETE

 4人でしか探せなかったモノ。
 自分達であり続ける事へのこだわり。
 今度はひとりひとりで有り続ける事にこだわる為に。
 BOΦWYは昨日のクリスマス・イヴを選びました。
 最後のGIGSは必ず来年プレゼントします。

 これはBOΦWYの解散メッセージ。

 20年前に「最後の夜」を東京ドームで迎えた。
 それが20年ぶりにDVDで復活。

 買ってしまいました。

 ある飲み屋で、買ったことを自慢していた人につられました。

 BOΦWYといえば、うちの兄貴がコピーをしていた。
 兄貴はベースをしていたが、本当はギターをやりたかったんだと思う。
 だから、兄貴は私にベースを教えて、自分でギターを弾いていた。

 兄貴は、文化祭に出るために、バンドの練習をしていた。
 しかし、学校を休んで練習していたのがばれて、停学+出場停止となる。

 そんなこんなで、BOΦWYはカラオケで歌う程度になっていた。

 BOΦWYである重荷から解放される「最後の夜」のDVD。
 当時って、こんなだったのか。

 ファンに対して紳士でありすぎて、期待されるBOΦWYであろうとし続けた。

 そんな男たちの映像。
JUGEMテーマ:音楽


2008.05.06 Tuesday | 音楽 | comments(0) | -
坂井泉水 音楽葬
2007.07.01 Sunday | 音楽 | comments(0) | trackbacks(0)
ZARD「負けないで」の想い出
 ZARDの坂井泉水さんが慶応病院で転落死しました。ご冥福を祈ります。

 ZARDの「負けないで」については、95年の阪神淡路大震災で被災した小中学生が歌っていましたね。

 私がまだ新聞記者2年目だったとき、私は仕事を休んで、被災地・神戸に行った。取材で行ったのですが、出張の扱いにならなかった(3度行って、3回目には出張扱いになる)。あのとき、私が所属していた「長野日報」で、現場に行った記者は私と、のちにフリーの写真家になった小林キユウ氏の二人だった。あのときは、なぜか、無性に行きたくてしたかがなく、取材であることを忘れ、ボランティア募集のところに行ったりもしていたっけ。

 それと、それまで、不登校の子どもたちを長野県木曽につれてきていた神戸の小児科医との連絡を取り続けていたので、その子どもたちも気になっていた。その子どもたちが震災後に来たキャンプで、「負けないで」を歌っていた。

 あの中学生はどうしているだろうか。最後にあったときに、やっぱり「負けないで」を歌っていたっけ。あの中学生は、不登校と被災のふたつに「負けないで」と歌っていたのだろうか。もう12年たつけど、もう26歳か。何してるんだろうな。

 そういえば、岡本真夜の「tomorrow」も歌っていたっけな。

 つくづく、ミュージシャンっていいな、って思う。こういうときに、自分にひきつけて、歌える歌を作れるなんて。憧れますな、ミュージシャンって職業は。

 葬儀は密葬にするらしい。ただ、 ファンのために「しのぶ会」が開かれるということになりました。

 時事通信によると、以下の通り。


  故坂井泉水さん(ZARDのボーカル、27日死去)をしのぶ会 6月27日、東京都港区南青山2の33の20の東京都青山葬儀所で。音楽葬として「ZARD/坂井泉水さんを偲(しの)ぶ会事務局」が行う。時間は未定。喪主は置かない。問い合わせは、ビーグラムレコーズ 電話03(3479)2371。 

2007.05.29 Tuesday | 音楽 | comments(0) | trackbacks(0)
思い出した最終打席
人生という名の列車(初回限定盤)
人生という名の列車(初回限定盤)


 このCDを聴いていると、あのときを思い出す。
 最終回2アウト。最後の打席に向かう私。
 実は、その前の試合終了後、ホームを挟んで両チームが挨拶をするとき、私は味方の後輩の足を踏み、その踏みどころが悪く、足を骨折していた(当時は、骨折しているとは思っていなかったが)。
 そのため、その試合には勝ったが、次の試合には出場できないでいた。しかし、中学校最後の試合。監督に代打を申し出た。監督は温情だったのか、代打を許可した。
 スコアは2−0。
 負けている。しかも、それまではノーヒットノーランで、味方は一人のランナーも出していない。その前の大会で準優勝した我々だったが、その日は、あとアウトカウント「1」を残すだけになっていた。
 その残り「1」が私になるかどうか。
 カウント1−1。私の好きなアウトコースやや高めだった。
 タイミングはばっちり。
 しかし、骨折している右足にうまく体重がのせられず、スイングが十分ではない。球威におされ、一塁線にファウルボール。
 おそらくその試合を見ていた人たちにとっては、なにげないファウル。しかし、私にとっては、そのファウルによって、体重を乗せられないことに気がつく打球だった。
 私は焦っていた。もし私が出なければ、中学最後の試合で、ノーヒット・ノーランで負けになる。内野安打は不可能。ライト前のヒット性の打球でさえ、十分に走れないために、アウトになる可能性がある。最低、レフト前のヒットくらいが必要な場面だった。
 足の様子からみて、フルスイングもあと1回しかできないだろうと私は思った。ピッチャー心理からすれば、ノーヒット・ノーランをしたいはずだし、はやく試合を終わらせたいはずだ。
 カウントは2−1。私なら2−2にしはしたくない。しかし、ピッチャーの調子は最高だ。どうすべきか。いろいろ考えているうちに、投球がされる。
 真ん中やや高めのストライク。
 そう見えた。私はフルスイングを選択した。
 しかし、ボールは無惨にもキャッチャーミットへ。
 試合終了。
 中学最後の公式試合は、ノーヒット・ノーランの負けだった。

 このアルバムを視聴していて、思い出した。
 http://www.t-baba.com/
2006.05.10 Wednesday | 音楽 | comments(0) | trackbacks(0)

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